漢字教育士ひろりんの書斎漢字の書架
2017.1.  掲載
 

 寺と痔

 「痔」について「ぢ」と大書した看板が大阪では目立つが(最近は東京銀座にも進出しているようだ)、「○○寺」のことを「~ぢ」と書いた石碑などは見たこともないので、痔も本当は「じ」なのに目立つように奇を衒って「ぢ」と書いていると思っていた。しかし、調べたところ、旧仮名遣いの場合、寺の音読みは「じ」なのに、痔の音読みは「ぢ」であることが分かって驚いた。
 康煕字典の引く韻書によると、寺は「祥吏切、音嗣」(廣韻、集韻、韻會)である。祥は「シャウ」または「ジャウ」と読むので、寺は「ジ」または「シ」である。一方痔は、「直里切」(唐韻)、「丈里切」(集韻、韻會)「丈几切」(正韻)でどれも「池上声」とする。直は「ヂキ」、丈は「ヂャウ」と読むので痔は「ヂ」が正しいということになる。
 寺を構成要素とするほかの字を「字統」で確認すると、「ジ」が寺・侍・恃・時・畤、「旧音でヂ」がmadaretera.png(560 byte)・持となっている。なぜか「痔」は字統に掲載されていない。
 念のためにもう一冊、「漢辞海」でも調べてみた。すると「ジ」が寺・侍・恃・持・時、「歴史的仮名遣いでヂ」が峙・畤・痔となっている。字統と共通する漢字についてみても、持・畤について見解が分かれているのである。
 康煕字典で確認すると、「持」は直之切(唐韻)・澄之切(集韻・韻會)で音治、「畤」は周市切(唐韻)・渚市切(集韻)・諸市切(韻會)で音止である。してみるといずれも字統が正しいようだ。
 それはさておき、寺と痔の音が違うということになれば、「痔は寺を声符とする形声文字である」と言えないことになってしまうのだろうか。
 どうもそんなことはないようである。説文解字でも痔について「ヤマイダレに従い寺声」とあるし、字統でも、上に挙げた寺以外の6文字について「声符は寺」とある。
 日本でジ・ヂやズ・ヅの発音に区別がなくなってしまったように、中国でもこれらは古くから同一音とみなされたのだろうか。しかし先に引いた各韻書の反切にあるように、痔や持はダ行の音で話されていた言葉のようである。そうなると、「『寺』の音はジだが、声符として使われるときは、ジ、ヂどちらの声符にもなる」ということになるだろう。
 形声文字の音とその声符の音は厳密に同じとは限らない。考えてみればそんな事例は山ほどあるが、寺と痔の場合、日本人が苦手とする「じ」と「ぢ」の違いであるだけに、まさか違うとは思わなかったということである。

蛇足:冒頭に書いた「ぢ」と大書した看板というのは、「ヒサヤ大黒堂」と「つぢ肛門科」のものが知られている。後者は「つぢ肛門科」と書いた看板の「ぢ」の部分だけ大きな赤色の字になっている。どうやら医院名(院長:辻嘉文氏)も「つぢ肛門科」が正式名のようである。しかし、国語辞典を引けばすぐわかるが、「辻」という日本語は旧仮名遣いでも「つじ」と表記する。何代前か知らないが、痔の専門医を志した医師が、自分の名前に「じ」がつくことを幸いに、これを「痔」の旧仮名遣いである「ぢ」に変えてインパクトを高め、集客に利用しようとしたわけであろう。先祖伝来の名字を変えてまで目立ちたいという根性は立派である。多くの「辻さん」たちから顰蹙を買っているにしても。



参考資料

康煕字典(内府本)  清、1716年[東京大学東洋文化研究所所蔵]:PDF 版 初版 パーソナルメディア 2011年

新訂字統  普及版第5刷 白川静著、平凡社 2011年

全訳 漢辞海 第3版 第1刷 佐藤進ほか編、三省堂 2011年

説文解字  後漢・許慎撰、100年:説文解字注  清・段玉裁注、1815年:影印本第4次印刷 浙江古籍出版社  2010年 より

画像引用元(特記なきもの)

JIS第1・第2水準以外の漢字(明朝体)  グリフウィキ(ウェブサイト)